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 兄がいなくなって、丸3日。
 ママは、そろそろ帰ってくる頃よ、としたり顔で笑うけれど。
 私はそうは思わない。
 兄のことは嫌いだったけれど。
 誰よりも分かっている自信がある。

 確かに、今までも壱は何度だって家出をしたわ。
 些細なことにだって腹を立てて。
 だけどね、ママ。今回はただの家出じゃないんだよ?

 帰ってこない人を待つよりも。
 もっとできることが別にない?
 ママに言っても無駄なんだろうな。

「李(すもも)」
 兄が私を見るたびに。
 呼ぶたびに。
 抱いていた感情を、知らなかったわけじゃない。
 ただただ、気づかないフリをしてただけ。
 気づかなければ、ずっとずっと変わらないと思っていたから。

 庭にひっそりと咲く、紅梅の香りが強くなる。

 兄が居なくなって、一週間。
 さすがにママは事態に気づき、警察に連絡しようと言い出した。
 いいじゃない、放っておけば。
 出て行きたくて出て行ったのよ。
 追いかける方が、無粋だわ。

 兄のことを考えながら。私はずっと、庭で呆けていた。ぬるま湯の世界に浸って、とろとろと。
「壱(いち)が居なくなったって本当なのか?」
 優作くんは息せき切って、かけてきた。
「誰に聞いたの?」
「お前んとこのお袋さん。血相変えて俺んちまで来た。『お宅に壱、来てませんか?』って」
 ママが髪を振り乱して、優作くんに詰め寄る姿は容易に想像がついた。
 ママは壱が大好きだから。ママに似て、何だって器用にこなせる壱が。
 パパに似て、優柔不断で不器用な私は、鬱陶しいんだってことも。
「恥ずかしいなあ。……ごめんね、優作くん」
 優作くんは、銀縁眼鏡のフレームを押し上げながら、別にと消え入るような声で言った。
 頬が僅かに染まっていたことには気づかないフリをして、私は彼から目を逸らす。
 どうしてだろう。
 彼が特別に思えない。

 優作くんは、元々兄の友達だった。
 兄がよく家に連れてきたから、自然に話すようになって。
「付き合おう」言われた時には、二つ返事でOKしたわ。
 ……ようするに、彼のことをとてもとても好きだったから。
 彼といる時間はとても彩度が強くて。光を放っていた。

 だけど、どうして?
 紅梅がグレーに染まって見える。
 世界が、全てが。
 無機質に染められていく。
 優作くんと逢えば、何か変わると思ったけれど。
 何も変わらない。
 世界はモノクロに支配される。

「どうした?」
 優作くんが、眉を寄せて覗き込む。
「何でもない」
 言って、彼のシャツの裾を掴んだ。
 軽く彼に凭れ掛かりながら。
 私はフィルターをかけて黒くなっていく世界に怯えていた。

 あんなにも好きだったはずなのに。
 恋焦がれたはずなのに。
 今の優作くんは、ただの「他人」だ。

 どうしよう。
 気づかなくていいことに気づいてしまった。
 どうしよう。
 見なくていいことを見てしまった。

 壱というフィルターを亡くした私には、何の色彩も無意味なものに変わっているだなんて。

 あんなにも香り立ちながら、自分を誇る紅梅なのに。
 匂いはこんなにも鮮明なのに。
 今の私には、色をなくしまってしまっている。

 それは僅かな残り香のようで。
 私は、兄を溺愛したママの気持ちが少しだけわかった気がした。

「なあ、李」
 優作くんが気遣うように、私を支える。
「あんまり落ち込むなよ」
 大丈夫、彼に笑み返しながら。

 この人とはもう一緒にいられないな、と思った。

 私が好きだった彼は、壱と一緒にいなくなってしまったのだから。

 梅は来年も、春になれば咲くけれど。
 私はもう兄と逢うことはないんだろう。
 それでも。
 業の深い、濃密なその香りを嗅ぐたびに、私は……。

 

 

この作品は、企画がしたい同盟さま「一文字百題企画」No.32「兄」として公開中です。

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